適応するということば

 

 

うつ状態になってから今日(療養3か月目)まで多くの専門家と話をした。

多いと表現したとして5、6人くらいのものだけど。

それでも私は十分すぎる数だと思う。

自分から発する言葉は似たり寄ったりだとしても、話すという行為自体かなり力のいることだと認識しているから。

 

いちばん最近、数日前に話をした人は、今までに出会った専門家の中でいちばん話しやすかった。

雰囲気や目つき、言動が落ち着いていて、威圧感もほぼ感じ取れなかった。

専門家の立場から多少私自身の考えと違ったことを言う場面はあっても、それがあったとしても、話しやすかった。

その人は私をただ私として認識し、ゆっくり話を進めてくれていた。と思う。

今までの人たちは私を型にはめこみ話を急かすようなところがあり、顔を突き合わせて話をするだけで息苦しさを感じた。

その人らと話をすることはもうないだろうから、雑多な人間情報のかけらとしてのみ記憶に残すことにしよう。

 

 

上記全員の口から出てきた、慣れる・適応するということばがどうもひっかかったのでその話をしようと思う。

 

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私は、慣れる・適応するという言葉が他人の口から出た場合、マイナスの意味を多く含んだ発言としてとらえる。

満員電車はそのうち慣れる、常に人がいる環境にもそのうち慣れる・適応できる、社内の下品な言葉遣いにも慣れる―――。

意味として、どれも最初は違和感を感じるがそういうものとして受け入れるようになる、馴染んでしまい違和感と感じなくなるということだと思う。

それは果たして良いことだろうか。

良し悪しではなくそいういうものでしょ?と何気なくと言う人もいれば、そうするしかない。とそっぽを向いてあるいは語気を強めて言う人もいるだろう。

前者のようにそもそも問題としてとらえていないか、後者のように問題と感じても解消方法はないと諦めているのか。

それ以外の意見もあるだろうけど、人間として日々を健やかに過ごそうと思ったら慣れる必要も適応する必要もないと思う。

人間が何もせずただそこに存在しているだけで違和感を感じるのだから、そこには何かしらおかしいところがある、異常な状態であると言えるはずだ。

 

慣れること、適応することが必ずしも正解とは言い切れないはずが、専門家もそれ以外の人も、当然のようにこの言葉を使う。

その場で言葉の意味を問いただせば統計もとれるだろうが、相手の気分を害しかねないので聞かないようにしている。(その後の話し合いに支障が出たら色々と面倒だもんね)

こういった一般的に面倒と思われがちな私が顔をのぞかせても付き合ってくれる人はいるだろうか…怖くて試せないな。

知り合いや友人の数が少ないから、0になるのが怖くて話せないんだな、きっと。

そんなひとり言でこの日記はおしまい。