楽しかった<疲れた

 

今日は久々に1日中自由な時間を過ごした。

少し遠出をして、必要なものを買い揃えて、あれこれ食べて、気に入ったものを買って、映画も観た。

映画に関して言えば、私はあまり心が動かなかった。揺さぶられるものがなかったというか、そんな感じ。たまたまその映画が優しめの出来だったのか、私の感じ方が変わったのかはわからないけど。もしかしたら、視覚情報から色々な心情を察するのが苦手なのかもしれない。

普段の生活の中で気が向いた時に本を読むんだけど、本にはその時々の心情が書いてあるから理解しやすいと思う。わかりやすさや楽しさをすぐに理解できるから読書は好き。理解しながら自分のペースで読み進められるところも。

そんなこんなで適当にお出かけを楽しめたけど、だいぶ疲れたな。気持ち悪い。早く寝よ。

人との距離が縮まると起こること

 

 

人とある程度仲良くなって日常的に連絡を取ることに慣れてくると、依存しがちになる。

チャットの返信が遅いと、どうしてだろうと疑問に思い、私との会話が楽しくなくなったのだろうと思うようになる。それから、やっぱり私は人と仲良くなれない人間なんだと自己完結して距離を取るようになる。

毎回疑問に思う。多くの人はどうやって良い人間関係を構築しているんだろう。どうやって関係を深めていくんだろう。なぜその人を信用できるようになったんだろう。

この人と仲良くなれるかもしれない、という期待をする度にこの壁にあたって、どうしていいかわからないままうまくいかずに諦めてしまう。考えて考えて、わけがわからなくなって投げ出してしまう。投げ出したところで何も困ることはないんだけど、虚しくなる。

解決に向けて行動を起こすことが状況を打開すする鍵なんだろうけど、その力が湧いてこない。得られるかわからない不確定なもののために使える力は今の私にあるのか?いつも答えはノーで、それは私が毎日を生きることで精一杯だから。

人間関係の築き方を知らないまま放置し続けたせいだろうか。きっとそうなのだろうけど、こんなことを人に聞けるはずもなく、気分が定位置に戻るのをただ待つことしかできない。それがいちばん楽だから。

苦しい

 

仄暗い考えが頭の中で渦巻いて、目の前のやるべきことに集中できない。常に不安が付き纏っている。自分を取り巻くしがらみから抜け出したいのに、それらを捨て去ることができない。合理的な思考に従い続けることができたなら楽なのに、感情が邪魔して実行しきれない。不便ね、人間は。

性懲りもなく実家に来たら

 

嫌だなーと思いながらも、顔を見せなければという義務感で来た実家。そうしたら本当に嫌なことが起こって頭が痛くなった。頭痛ってこんなに簡単に起こるものなんだと思うと同時に、いつもは薬で押さえつけてるから自分の基準を忘れてしまったんだろうとも思った。私はやっぱり一生実家に馴染めないのだろう。一生は言い過ぎかもしれないが、そんな言葉を使ってしまうくらいには実家というものに居心地の良さを感じられずにいる。自分の歳が歳だからか、短い期間でも実家で親の世話になることに違和感を覚える。居づらい。この一言に尽きる。私は私で一緒にいてくれる人を見つけるか、成り行きとやらに身を任せてしまわないと。

考えることも疲れたな。この先数年は帰らないかもしれない。でもそれでいいのかもしれない。新しく部屋を借りてみようか。

ひとまず今日はふらっとどこかに出かけよう。

日常に張り合いなんてなくていいんだろうな

 

日常的についついやりがいとか、張り合いとかいうものを求めてしまいがちなんだけど、それって張り合いがあるのが普通だと思い込んで生きてきたからかもしれない。

生活をしていると少なからず問題が現れる。それを解決しようと奮闘することが、自分の、社会の普通であったとしたら、何もない日というものは怠惰であり、だからこそ何とかして問題を見つけようと頭が働く。そんなことしなくたって誰も、自分でさえも困らないのに。

ずっとそんなふうに生きてきたから私は今、考えても答えの出ないことをぐるぐると頭に浮かべてしまっているのかもしれない。だから今は何も考えずに、張り合いとか問題意識なんてやつはとりあえず放っておこうと思う。どうせまた取り止めもないことを考えてしまうときが来るんだから。でもその時はその時で、きっと自分の調子って違うと思うから、考えたければ考えればいいよね。

いつもなら、こうして考えが澱んでしまった時って、「もう嫌だ、明日なんて来なければいい。どうせつまんない。」で終わってしまうんだけど、今日はちょっと進歩があったんじゃないかなと思う。

私という人間を否定された気分

 

会社で新しく仕事を一緒にすることになった人がいる、何人か。

その人らに、目が笑ってないから何を考えているのかわからず怖い。性格悪い。とか色々言われた。これを言われたのは飲みの席。

私は普段から、理由をつけて言いたいこと、というかその場面で必要ことを言っているし、各個人のサポートもしている。ストレスを溜めながら。

そのストレスって、同じ環境に置かれている考えの近い人に話すのが伝わりやすいと思うし、普段の私の言動を見ていれば愚痴も聞いてもらいやすいと思った。だからこそ飾らずに話をしたのに、最初に書いたように性格悪いとか言われる始末。せっかくの休みなのにストレスは発散されずに、むしろ積もった。

やっぱり私は自分の話をしても他人から理解されない人間だと思い知った。仕事でちょっと関係を築けたからといって、立場を得たからといって、周りの人間は私を私という偶像でしか捉えられていないし、その偶像を私として捉えてしまった人間にとって、素の私は冷酷で非情な存在でしかないんだなと。

今回もお勉強になりました。また時間と金使って。本当に面倒。

休みのはずなのに

 

 

うちは両親の折り合いが悪い。お互いやりとりをすることが面倒だからか話をするのは最低限で、話をしたとしてもつっけんどんな感じ。すぐ喧嘩になるから話し合いをしているところなんて見たこともない。実家やその近くに住んでいたころは頻繁にその光景を目にしていたから、自分の生まれ育った家にいるのに安心感とか安定感がなかったように思う。

今は家から離れて暮らしているから気分も楽だったのだけど、この休みで呼び戻されて先に書いたような気持ちになっている。両親は自分の話をするのが好きな人たちだから色々な話を聞くことになる。愚痴がほとんどだから嫌なんだけど、自分から話したいこともないので必然的に聞き専になる。母に関しては、私には愚痴ばかり話すのに姉とはテレビを見ながら日々あったことを話しながら楽しそうに笑っているのだ。この違いは何だろうともやもやしたりもするけれど、あの人はあの人なりに人を見て自分の話をしているだけだから気にしても仕方がない。私に愚痴を言わないでくれ、と言ったところで、あの人はよくわからない責任を感じて長文のメッセージを送ってくるだけなのだから。

私はたぶん親にもっと理解されたかったし、家はちゃんと安心できる場所であってほしかった。今言っても変わらないし、何なら私が学生のころ言ったとしても変わらなかったはず。今だって両親の不和を目の当たりにすると重い疲れを感じる。早く帰りたい。